(46)内田樹著『日本辺境論』
◎とことん辺境で行こうと呼びかけ 評価★★★☆☆
内田樹さんの書いたものは、首肯できるものが多く、ブログや中央公論のコラムは愛読しているので、話題になっている本書はかなり期待をもって読み始めました。期待が大きかったせいでしょうか、8割ぐらいは大いに納得し、残りの2割は首をかしげる論だったと思います。
日本が世界のなかで「辺境」であるということは、これまでに山ほど「日本特殊論」が出ているように、多くの人に共有されている考え方だと思います。内田さんは本書で「辺境」ということをこう定義しています。「『辺境』は『中華』の対概念です。『辺境』は華夷秩序のコスモロジーの中に置いてはじめて意味を持つ概念です。世界の中心に『中華皇帝』が存在する。そこから『王化』の光があまねく四方に広がる。近いところは王化の恩沢に豊かに浴して『王土』と呼ばれ、遠く離れて王化の光が十分に及ばない辺境には中華皇帝に朝貢する蕃国がある。これが『東夷』、『西戎』、『南蛮』、『北狄』と呼ばれます」。
つまり日本は東夷という辺境になるわけですが、卑弥呼から日本はその地位に同意署名をしました。中国との関係は歴史上いろいろと変化をしましたが、「東夷」つまり「辺境人」であるという概念は、中国との関係という実体性の問題とは関係なく、今日までずっと日本人を規定しているという考え方です。自分は劣っているという意識・無意識があるので、外来のものは異常なほどまでにありがたがり、開放的に取り入れていく。内田さんは、「華夷秩序における『東夷』というポジションを受け容れたことでかえって列島住民は政治的・文化的なフリーハンドを獲得した」と指摘します。朝鮮は中国文化をそっくりまねようとしたのでオリジナルになれなかったけれど、日本はあえて中国から遠いというハンデを逆手にとって、外来のものを工夫して加工できたということです。それは日本優位論というより、辺境人とはそういうものだと中立的に内田さんはみなしています。近代以降も同じことで、今度は西洋のものをありがたくいただき、それを工夫加工していったということです。
だから日本は自分たちの文化や思想を「世界標準」にするという意思や行動はまったくもっていませんでした。いいものは「外」からやってくると考えているのですから、当然でしょう。内田さんは「とことん辺境で行こう」と言います。先の戦争も、日本がたとえ間違ったものであっても何がしかの思想をもって行ったのではなくて、西欧列強という世界標準に「追いつこう」としたことがエスカレートした結果であると、内田さんはみます。
日本人の心性については、丸山真男が指摘した「きょろきょろ見る」ということだと定義します。「きょろきょろ」することが日本人だと、それはその通りだと思います。内田さんは、さらに「辺境人は学びの効率がいい」、日本人の時間論、日本語論へと論を進めていくのですが、文章は平易なのですが、私にはよく分からない、なっとくできないことが多かったです。「学ぶ」ということには、どんな師についても「学びを起動」することができるといいます。時間論は武道の考え方に沿いながら、「先駆的に知る力」があり、「自分にとってそれが死活的に重要であることをいかなる論拠によっても証明できないにもかかわらず確信できる力」だと述べます。つまり、日本人はなんにでも「飛び込む」ことができる。飛び込んで、効率よく学ぶことができる「辺境人」というのですが、私にはよく理解ができませんでした。
日本語論は比較的、明快です。文字のは表意文字(漢字)と表音文字(仮名、アルファベットなど)がありますが、日本だけが両方の混じり書きを続けています。朝鮮は漢字を捨ててハングルだけにしましたし、ベトナムもアルファベットにしてしまった。西洋ははじめから表音文字です。混じり書きの強みは、いろいろ言語学的、身体論的な要因によって識字率が上がるといい、さらに日本だけが漫画という文化で一人勝ちができたというのですが、本書を読んでもその筋道が納得できませんでした。
文章は平易なのですが、新書ということで、内容を詰め込みすぎて、失礼ながら飛躍が多かったのでしょうか。そんな印象を持ちました。「とことん辺境人で行こう」という提唱には大賛成です。日本は小国という自覚をもったほうが日本人は幸福に生きられますし、政治や経済での国際的な力の低下のなかでは、日本が進むべき道として正しいと思います。論理が飛躍しているところを自分なりに生めながら、再読しなければいけないかな?という読後感でした。<狸>
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